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No.0018 永井 慶吾

チアリングメンバー

見えるとか見えないとか、そんな壁以上に大きい壁を越えていきたい。

見えるという感覚を知らない

みなさんこんにちは。SFC環境情報学部1年の永井慶吾です。アニメとか映画を見たり、読書をしたり、あとはコンピュータとかテクノロジー系の話が大好きです。ガジェットとかハイテクなものとか、夢があるSFとかに興奮するタイプのオタクですね。

もともと僕自身は障害についてそこまで興味はないし、誰かのために何かをしようとか、社会をよくするとかそんな純粋な気持ちは持っていないと思うし、それが当たり前だと思っています。でも、自分の人生と視覚障害はどうやっても切り離せません。

僕は小さいころから全盲で、「見える」という感覚を知りません。5歳ぐらいに自分の障害について知るまで、周りも自分と同じなのかと思い込んでいたのを覚えています。つい1か月前に大学に入学するまで盲学校にいました。

「盲人国」から出た自分がぶち当たった壁

みなさんは、『盲人国』という短編小説を知っていますか?とある村が、火山の噴火によって外界から隔絶された状態になりました。そんな中で、生まれてくる子供を盲目にする遺伝性の病気が広まってしまい、世代交代を何度も繰り返した結果できた盲人だけの国に、一人の目の見える青年が迷い込む、という内容です。その村では盲目というものは当たり前で、逆に目の見える青年は盲人国の生活に適応できずに今でいう障碍者のような扱いを受けてしまいます。

この小説ほど極端ではないですが、自分が今まで視覚障碍者のコミュニティの中にいたのは確かです。そこでは障害があるからと言って特別な扱いを受けることもなかったし、みんなそれぞれ個性とか得意なことを持っていて、いろんなやつがいてなかなか楽しくやっていました。

たまにオープンキャンパスとかで見えてる人たちの社会に出ることもありましたが、学校に戻れば「見えないとあんなことが大変だ」とか「困るよねえ」見たいなことで共感してくれる人たちがいて、自分が障碍者だということを意識することはあまりありませんでした。この調子で大学でも他の人たちと同じようにやっていけるんじゃないか、障害とかあまり気にしなくてもいいんじゃないかと思い込んでいました。

大学生になって、健常者の社会で生活してみると、視覚障害というものが自分が想像していたより深刻なものとしてとらえられているなと思いました。この表現が適切かはわかりませんが、「見えてなくて大変そうだから、できるだけいろんな負担を軽くしてあげないといけない」みたいな何か”圧力”のようなものが伝わってきました。

見える、見えない以上に何か壁がある

僕は他の人と同じように接していきたいし、そうして欲しい。おそらくそれはできることだとは思うのですが、見えている見えていない以前に障害というものの認識が自分と社会で違う気がしました。

それに、僕も周りの人に対して壁を作っているところがある気がします。自分自身も見えている人たちとの接し方とか、その中でどうやって生きていけばいいのかよくわかっていません。自分が見える人たちからどんな風に見えているのかわからないからだと思います。

これは、もちろん健常者だけでの問題ではありません。われわれ当事者も健常者とどう一緒に生活していくか考える必要があると思います。でも、障碍者に関する情報は健常者支店の物であふれていて、当事者に向けて健常者とどうかかわっていけばいいかという情報は見かけたことがありません。

SFC-IFCの安心感、そして客観的に考えてくれる仲間たち

僕自身が自分で感じて模索していくしかない。SFC-IFCにはそのヒントがあると思いました。ここには障害について一緒に理解して、なおかつ客観的に考えてくれる人たちがいる。その中でなら、自分が障害というものをどう認識して社会に伝えていけばいいのか、周りとどう接していけばいいのか、当事者として何ができるのか考えて行くことがやりやすいと思いました。

少なくとも自分の障害については何も特別なこととは思っていません。見えないなりにできることはしたいし、一人で行けるところは増やしたい。これはアニメを見るとか、本を読むこと以上にやりたくてやっていることです。SFC-IFCではひととの接し方とか人がいないとできないことについて考えていきたいです。

また、長らく全盲として生きてきたのでいろんな語れる話はあると思っています。一人の当事者として、何か良い方向へ進むようにしていきたいです。よろしくお願いします!

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No.0018 永井 慶吾

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