No.0012 篠田 翔太郎
介助マッチングプロジェクト
助ける方法はひとつじゃない。助ける側も、助けられる側も、お互いが選択肢の多い柔軟な社会へ。
《生まれつき脳性まひの私の子供時代》
"私は生まれつきの脳性まひで、話すことと食べること以外は介助が必要です。
保育園までは、みんなと一緒に通園していました。周りの子供たちも「体の動かない子もいるんだな」と特別なことは感じることなく接することができていたようです。幼なじみとは、10年ぶりに会ってもすぐに打ち解けることができます。
小学校は特別支援学校に通学することになりました。それは、将来のことを考えて少しでも障害が重くならないように授業に「訓練」の授業があったためです。
私の通学していた特別支援学校は、障害者スポーツもやることができ良かったです。ただ、クラスが学年あたり7人と少人数だったこと、また、スクールバスで通学していため、健常者の方々と知り合う機会も少なく、社会性を学ぶ機会が少なかったことなどが残念でした。
そこで中学校からは、介助員制度のある市区町村に引っ越し、普通学校に通学しました。
普通学校には、さまざまな学生がいて、積極的に手伝ってくれる子より、手伝い方がわからず見ているだけの人のほうが多かったです。「なんで障害者になったのか」など健常者の立場からの疑問や本音にも触れることができ良かったです。"
《今の考え方に繋がった、大きな体験》
生まれつき脳性まひの私の子供時代
《大学には、一人で通学》
これがきっかけとなり、大学には一人で通学し、当時は、障害学生支援室も大学に設置されていなかったため、介助はトイレ介助も含めてクラスメイトに手伝ってもらっていました。
大学に進学できたおかげで就職は、在宅勤務制度のある数少ない一般企業に就職することができました。しかし、一般在宅勤務をしているとヘルパー制度が使えません。
そうすると、大学生活では、周りに学生がいたので、気軽にできることも多かったですが、今は、トイレは1人ではできないたため長時間の外出をすることはできません。
また、在宅勤務をしていると介助者が家族や福祉専門家であることが多くなり、介助が「家族」や「福祉専門家」、「職場」と閉じてしまいがちです。
《選択肢は多くあったほうがいい》
「この人にはこの手伝い方」という絶対的な方法はないと私は思っています。
手伝う側にも手伝われる側にも、選択肢は多くあった方がいい。
その選択肢を増やす方法を、SFC-IFCで仲間と一緒に楽しみながらイベントなどを企画したりプロジェクトを進めたりして、お互いに気兼ねなく声を掛け合える社会にしていきたいです。
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